今日は何の日? -2017年03月21日-|フィデリ・今日は何の日?

今日は何の日?2017年03月21日

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今日は何の日?

・国際人種差別撤廃デー

1960年のこの日、南アフリカのシャープビルで、人種隔離政策(アパルトヘイト)に反対するデモ行進に対して警官隊が発砲し、69人が死亡した。この事件が、国連が人種差別に取り組む契機となったことから、人種差別撤廃のための記念日とされた。
この日は、世界中で人種差別の撤廃を求める運動が展開される。



今日の人物

アイルトン・セナ(Ayrton Senna da Silva)

サンマリノの空に召された「音速の貴公子」

アイルトン・セナ・ダ・シルバ(本名)は、ブラジル、サンパウロ市の裕福な地主の長男として生まれた。4歳のとき父親・ミルトンからレーシングカートを与えられると、たちまちそれに夢中となり、その才能を磨いていった。セナの父親はブラジル国内でも有数の農場・牧場、零細商店から自動車修理工場までをも多角経営しており、その豊富な資金とインフラがドライビング技術の向上に拍車をかけた。ただし甘やかされたわけではなく、勉強の成績が落ちればカートを辞めることが常に条件として課されていたという。

13歳になるとレースを始め、1977年には南アメリカのカート選手権を制した。また、1978年には当時の日本国内最高峰カートレース「ジャパンカートレース(ジャパンカートグランプリ)」に参戦するために来日した。

1980年のシーズンオフには幼馴染のリリアンと結婚。この頃から出版社等各メディアへのアピール活動を始め、自ら資金調達を行うようになる。

1981年、ヨーロッパに渡り、ジム・ラッセル・レーシングスクールを受講した後、イギリスのフォーミュラ・フォード1600に参戦して優勝するが、父親との約束があったことに加え活動資金が不足したため一度引退を発表しブラジルに帰国。

しかしレースへの情熱は冷めがたく、ブラジルへの帰国を強く主張した妻リリアンと離婚。1982年には再びイギリスに渡り、フォーミュラ・フォード2000に転向してチャンピオンとなった。1983年にはイギリスF3でイギリス人のマーティン・ブランドルと激しいタイトル争いの結果チャンピオンを獲得し、マカオGPも制した。

翌1984年、トールマンからF1デビュー。第2戦南アフリカGPで6位に入り、初の入賞を記録。大雨となった第6戦モナコGPでは、予選13位から追い上げて2位に入賞した。

1985年からは名門のロータスに移籍し、第2戦ポルトガルGP予選において初のポールポジション(以下PP)を獲得する。大雨となった決勝では、スタートからトップを独走し、念願のF1初優勝を果たす。この年は計7回のPPを獲得した他、ポルトガルGPと同じく雨に見舞われた第13戦ベルギーGPで自身2勝目をあげ、ランキング4位となる。

翌1986年には、予選ではルノーの予選用スペシャルエンジンの性能もあって、シーズン16戦中の半分に及ぶ8度のPPを獲得。決勝においては前年同様2勝を飾り、自身初のチャンピオン争いを経験した。特に第2戦スペインGPでは、ペースアップして追い上げるマンセルを0.014秒・数十センチ差で制した。

1987年、ロータスは念願のホンダエンジンを獲得。チームが開発中だったアクティブサスペンションに不具合が多発し苦戦したが、市街地で行われた第4戦モナコGP・第5戦デトロイトGPでは、タイヤの磨耗が少ないというアクティブサスの利点を生かし、タイヤ無交換で走り切り優勝。

しかし、その後はチームメイトの中嶋悟とともに苦戦を強いられることになる。第11戦イタリアGPでは、久々に優勝のチャンスが巡って来たが、レース終盤、トップ走行中に最終コーナーのパラボリカでコースアウトした。2位に終わり、この時点でチャンピオン争いから脱落した。結局この年も2勝に終わり、PPに至っては1度のみと大きく減少した。

この年は、鈴鹿における日本GPが初開催された年でもある。第15戦となったこのレースで、セナは予選7位から2位に入り、ホンダ最上位となった。しかし続く最終戦オーストラリアGPでは、2戦連続で2位でゴールしたものの、ブレーキダクト違反で失格処分を受け、ドライバーズタイトルで2位のナイジェル・マンセルを上回ることができなかった。

1988年にはホンダエンジンを獲得したマクラーレンに移籍し、アラン・プロストとのF1史上最高ともいわれる最強タッグを結成。チームと2人はシーズンを席巻し、16戦15勝、10度の1-2フィニッシュを記録した。セナはこのうち当時のF1史上最多年勝記録となる8勝を挙げ、同じく最多勝記録歴代2位である7勝を挙げたプロストを下し、第15戦日本GPで自身初のチャンピオンを決めた。また、予選でも当時の新記録となる13度のPPを獲得している。

1990年は、フェラーリに移籍したプロストとチャンピオンを争うこととなり、3年連続両者の争いとなった。予選では10度のPPを獲得、特に第14戦スペインGPでは、自身が目標としていた通算50回目のPPだった。決勝でもセナは6勝を挙げ、5勝のプロストを押さえ2度目のチャンピオンに輝くが、決定劇は第15戦日本GPにおいて、スタート直後に両者が接触するというものだった。2年連続の両者接触という結末は、関係者やファンにとって後味の悪いものとなった。

翌年、セナはこの接触が故意によるものだったと認めている。セナは前年の接触をプロストの故意によるものと捉えており、報復の意図があったことを示したが、大きな批判を受けることとなる。

1990年暮れのFIA表彰式で特別功労賞の表彰を受けた本田宗一郎に『セナ君、おめでとう。来年も、ナンバーワンのエンジン、作るよ』と言われ感極まって涙した。その前のやり取りとして本田はセナに「ナンバーワン、ナンバーワン、ナンバーワン!」と英語で声をかけ、セナは本田に「ドウモアリガトウ」と日本語で返した。その時タキシード姿で撮った写真が、両名にとって生涯最後のツーショットとなった。

1991年、第2戦ブラジルGPで念願の母国初優勝を達成。ギアボックストラブルにより、終盤に6速のみでの走行を余儀なくされた中での勝利だった。これを含め、当時の新記録となる開幕4連勝を記録するが、その後ウィリアムズチームが巻き返し、ナイジェル・マンセルとのチャンピオン争いを繰り広げることとなる。第10戦ハンガリーGP直前、本田宗一郎が死去。弔い合戦となり喪章を付けて挑んだこのレースで、セナはポールトゥーウィンを達成、6戦ぶりにポディウムの頂点に立った。続くベルギーGPでも優勝するが、その後はウィリアムズが3連勝を記録する。チャンピオン争いは、第15戦日本GPまで縺れこむが、このレースでマンセルは10周目に1コーナーでスピンアウトし、リタイヤ。セナが3度目にして生涯最後のチャンピオンを獲得した(シーズン7勝)。

1992年は、ウィリアムズ・ルノーが開幕から前年以上の圧倒的な強さを見せ、マクラーレンは劣勢を強いられた。そんな中でも、第6戦モナコGPでは、終盤に開幕6連勝目前だったナイジェル・マンセルとのバトルを制して同年初勝利を飾り、第10戦ドイツGPでも終盤のリカルド・パトレーゼの猛追を振り切って2位を死守するなど、時折存在をアピールした。

しかし、優勝3回、PPも1回に留まり、リタイヤはF1参戦中2番目の多さとなる7回を記録。ランキングは若手のミハエル・シューマッハの後塵を拝す4位に終わるなど、シーズンを通すと不本意な結果となった。

1994年シーズンには、念願であった当時最強のウィリアムズ・ルノーへの移籍を果たす。第3戦サンマリノGPは、予選から重大事故が多発。予選1日目には、可愛がっていた同胞のルーベンス・バリチェロが大クラッシュを起こし、鼻骨を骨折。そして4月30日の予選2日目には、ローランド・ラッツェンバーガーの、F1における12年ぶりの死亡事故が発生した。

これらの中で、セナは心理的に不安定な状態となり、電話で恋人アドリアーナに「走りたくない」と話していたことが後に語られている(ただし、夜には落ち着きを取り戻していたという)。

迎えた決勝日の5月1日。セナは第1戦、第2戦同様ポールポジションからスタートしたが、開幕2連勝で波に乗るミハエル・シューマッハの猛追を受ける中、7周目、現地時間午後2時17分に超高速・左コーナー「タンブレロ」において、時速310kmで突如コントロールを失う。マシンはそのまま直進してコースアウトし、コンクリートウォールに激突(激突寸前、時速210km〜220kmまで急減速していた)、大破した。

セナは、蘇生処置を施されつつヘリコプターでイタリア・ボローニャ市内のマジョーレ病院に搬送される。事故後、コース脇に横たわる保温ブランケットに包まれたセナを救急チームが担架に乗せると、セナが横たわっていた跡には、空撮映像からでもハッキリと確認出来るほどの大きな血だまりが残っていた(気道切開による出血が多い)。ヘリからは、血が滴り落ちたと言われる。

セナは、折れたサスペンションアームの一部がヘルメットを貫通し、頭部を強打しており頭蓋骨の複雑骨折を負っていた。結局、現地時間午後6時3分には脳死状態に陥り、午後6時40分、事故発生から約4時間後に死亡した。享年34。



プレスリリース

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ビジネスセミナー

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出来事

  • 1907年 - 小学校令が改正され、義務教育が6年間となる。
  • 1935年 - ペルシアが国号をイランに改称。
  • 1945年 - 大本営が硫黄島玉砕を発表。
  • 1998年 - 明石海峡大橋開通。
  • 2014年 - 直径1.2キロの小惑星が地球に接近すると予測されている。衝突確率は91万分の1。

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誕生日

  • 1685年 - ヨハン・ゼバスティアン・バッハ ()-作曲家(+ 1750年)
  • 1763年 - ジャン・パウル (Jean Paul)-ドイツの小説家。(+ 1825年)
  • 1839年 - モデスト・ムソルグスキー ()-作曲家(+ 1881年)
  • 1876年 - 押川 春浪 (オシカワ シュンロウ)-作家、SF作家、冒険小説家。(+ 1914年)
  • 1924年 - 伊藤 宗一郎 (イトウ ソウイチロウ)-政治家。(+ 2001年)
  • 1933年 - 種村 季弘 (タネムラ スエヒロ)-ドイツ文学者、評論家。(+ 2004年)
  • 1955年 - フィリップ・トルシエ (Philippe Troussier)-愛称「白い呪術師」で知られる日本を率いたサッカー監督
  • 1960年 - アイルトン・セナ (Ayrton Senna da Silva)-3度の世界王者に輝いたF1レーサー。(+ 1994年)
  • 1964年 - 江國 香織 (エクニ カオリ)-作家
  • 1980年 - ロナウジーニョ ()-サッカー選手

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忌日

  • 1928年 - エドワード・マウンダー (Edward Walter Maunder)-天文学者(* 1851年)
  • 1938年 - ジョン・ベイツ・クラーク (John Bates Clark)-経済学者。(* 1847年)
  • 1969年 - コートニー・ホイットニー ()-弁護士・法学博士、合衆国米軍将官(* 1897年)
  • 1971年 - 深田 久弥 (フカダ キュウヤ)-小説家(* 1903年)
  • 1998年 - ウィルバート・オードリー ()-汽車の絵本作者。(* 1911年)
  • 2006年 - 宮川 泰 (ミヤガワ ヒロシ)-作曲家(* 1931年)

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誕生花

  • マダカスカルジャスミン
  • 花言葉:二人で東へ旅に

「アイルトン・セナ(Ayrton Senna da Silva)」『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。
2017年03月21日15時(日本時間)現在での最新版を取得。

「03月21日」 『フリー百科事典 ウィキペディア日本語版』(http://ja.wikipedia.org/)。
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